2009年03月06日

エジプト旅行(11):エドフのホルス神殿【改訂:リンク先修正】

エジプト旅行の全体行程などについては、以前の投稿にあります。



ツアー4日目午前はアスワンからルクソールへ移動しましたが、その途中でコム・オンボ神殿とエドフのホルス神殿を見学。コム・オンボ神殿については、前回に投稿しています。今回はエドフのホルス神殿。



エドフ(Edfu)のホルス神殿(Temple of Horus)についての解説は、現時点でWikipediaの英語版しかありません。



エドフには先史時代からホルス神を祭る至聖所があったとの事ですが、現在のホルス神殿はプトレマイオス朝時代に建設されたもの。このホルス神殿はナイル川の氾濫時の砂に埋もれていたので、レリーフなどは後世の破壊を免れたとの事か。ガイドの説明では、一時期迫害されたキリスト教徒(コプト教)の隠れ家になり、レリーフの神々の頭部が偶像崇拝を嫌ったキリスト教徒などに削られています。

「ホルス神」についてはこちらを参照。

「コプト正教会」についてはこちらを参照。

尚、現在のエジプトにはコプト教の人が約10%、イスラム教の人が約90%という割合のようです。


ホルス神殿のレイアウトは下図の通り。リンク先サイトでは、図上でクリックしたポイント(至聖所、塔門、壁面など)の写真が見られます。




下が塔門、上部中央が至聖所、丸は列柱、列柱に囲まれた広い場所が中庭。ホルス神像は塔門の両側、中庭の上部の第1列柱室の入口両側にあります。



巨大な塔門(一部に彩色が残っています)






列柱(一部に彩色が残っています)




天井の黒い部分は、迫害されたキリスト教徒(コプト教)の隠れ家になっていた時の生活ススの跡。



礼拝堂・壁面のレリーフ






回廊・壁面のレリーフ






塔門脇のホルス神像(記念写真のポイント!)






もう一度ホルス神殿のレイアウトを見てください。礼拝堂の中に至聖所を囲むように小さな部屋があります。

ガイドの説明によると、古王国から新王国などでは神殿を寄進するのはファラオに限られていましたが、末期王朝・プトレマイオス王朝時代になると、貴族達も部屋の単位で寄進に参加するようになったのだそうです。

また、一般の人もファラオや神のレイアウトの横に、金の寄進で名前を刻めるようになったとの事。



尚、このサイトでは、1:150のスケールでホルス神殿を往時の状態でモデル化した時の写真があります。天井や壁の一部を透明状態にしてモデル化していますので、至聖所のレイアウトや塔門の構造体が判ります。






更に、YouTubeに登録された動画で神殿の様子がよく判ります。神殿自体が大きいですが、塔門に至るまでも距離があるのです・・・

Temple of Edfu Egypt





【改訂】2010年6月14日 10:30 リンク先の修正


 
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2009年03月05日

エジプト旅行(10):コム・オンボ神殿とレリーフ

エジプト旅行の全体行程などについては、以前の投稿にあります。



ツアー4日目午前はアスワンからルクソールへ移動しましたが、その途中でコム・オンボ神殿とエドフのホルス神殿を見学。

まず、コム・オンボ(Kom Ombo)神殿。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の解説はこちら(英語版が詳しいです)。



コム・オンボ神殿のレイアウトは、このようになっています。Google Earthの写真の位置で左下から入りました。




コム・オンボ神殿は、古代エジプト神話における隼の頭のハロエリス神(ホルス神の地域名)とワニの頭のセベク(Sebek)神に捧げられ、珍しい二重構造を持っているとの事で、左右対称に建設されて(向かって左がホルス(Horus)神、右がワニの神セベクに捧げられているとの事)いて、至聖所も2つあります。


ホルス神についてはこちらを参照。

セベク神についてはこちらを参照。



ここでもレリーフが素晴しい。

コム・オンボ神殿は、新王国時代のトトメス3世が造った建造物の跡地に、プトレマイオス(Ptolemaios)6世が建てた神殿を更に増改築しています。ガイドによると、プトレマイオス朝のファラオ(ギリシャ人)は、自らの「エジプト化」という融和策を取り入れて、神殿にそれを願うレリーフとか。
左から3人目の王が神々から祝福されている図。左右の神々の手が王の肩に載せられていたり、王との間に神がいると前に立つ神の肩口から手が伸びていたりと、神々と親しい(神々に祝福されている)事を示すレリーフとして印象的。


「プトレマイオス朝(Ptolemaic dynasty)」についてはこちらを参照。


ガイドの説明では最左端はクレオパトラ(Cleopatra VII)のレリーフとか。
「クレオパトラ7世」についてはこちらを参照。



ワニの頭のセベク神のレリーフ



セベク神のエリアにある「ハトホル女神の小礼拝堂」と呼ばれる所には、ワニのミイラが安置されてます。「ハトホル女神の小礼拝堂」の写真を撮り損ねましたので、ここを参照。



イムホテプ(?)と医療機器のレリーフ

既に各種医療機器が使われていた証(写真右端)。ガイドによると、頭部の壁面が無くなってしまった人のレリーフは、イムホテプとの事。イムホテプは、古王国時代のジェセル王の宰相、トート神の神官、サッカラの階段ピラミッドの設計した建築家、内科医としても優れ、死後「知恵、医術と魔法の神」として神格化された程ですから、そう考えるのが自然かもしれません。


イムポテプ(Imhotep)についてはこちらを参照。

トート(Thoth)神についてはここを参照。


 
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2009年03月03日

エジプト旅行(9):フィラエ島のイシス神殿

エジプト旅行の全体行程などについては、以前の投稿にあります。


ツアー3日目は、アブ・シンベル神殿で朝日を見る事から始まりましたが、午前中はアブシンベルからアスワンへ観光バスでコンボイ隊形での3時間移動(約280km)。

アスワン市内観光はツアー2日目にも一部していますが、この日はイシス(Isis)神殿見学とスーク(市場)散策。



まず、イシス神殿。船着場(ツアー2日目の船着場とは違います)からモーターボートでフィラエ島(Philae、旧アギルキア島。アスワン・ダムの建設により半水没状態であったが、ユネスコの協力で移設し、元の島名を一般的に利用。下の逸話も参照)へ。


フィラエ島にはイシス神殿以外にも、ハトホル(Hathor)神殿・ホルス(Horus)小神殿などもあり、それらを総称してフィラエ神殿としているようです。
フィラエ神殿の解説は、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照。英語版は詳しいです。



これら神々の関係:(色々異説があります)






神々の関係と古代エジプトの神話の良く知られた「オシリスとイシスの伝説」を認識すれば、フィラエ島にある神殿の関係が理解できるかも知れません。

「オシリスとイシスの伝説」
王であるオシリスは弟のセトに妬まれ、体を切断されてエジプト各地に分けられてしまう。オシリスの妻イシスは遺体を拾い集めて再生させ、息子のホルスがセトに仇討ち。

オシリスとイシスの伝説は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照。




英語版wikipediaには往時の神殿内部の想像図が掲載されています。





アスワン市周辺におけるフィラエ島の位置関係はこの地図を参照。
元本の地図は「http://www.egyptologyonline.com/aswan.htm」より流用、マーク及び日本語の地名・遺跡名を追加。






フィラエ島の遺跡の配置はここを参照。





出発した船着場はアスワン・ダムの東岸側にあり、フィラエ島を北方から時計と逆方向で巡ります。従って、湖水側からのビデオ・写真を撮るなら、進行方向左側を確保するのがいいです。島への上陸はフィラエ島の南西側の「MODERN LANDING」となっている辺りです。帰りはそこからやはり時計と逆回りでした。


イシス神殿でのスナップ写真を幾つか掲載しておきます。

第1塔門





レリーフ1





レリーフ2





レリーフ3






フィラエ島の観光をYouTube動画としてまとめています。

フィラエ島(イシス神殿)観光






Webで見つけたフィラエ島の逸話
「・・・エジプトとアメリカの親善はケネディ大統領がフィラエ島のイシス神殿の移築のお金を出したところから始まりました。・・・」

 
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エジプト旅行(8):アブ・シンベル神殿の「音と光のショー」と朝日に当たる神殿

エジプト旅行の全体行程などについては、以前の投稿にあります。



ツアー2日目にアブ・シンベル神殿を見学した後は、神殿近くのホテルに宿泊。チェックインを済ませてから一息した後、夕方に再度アブ・シンベル神殿を訪れて「音と光のショー」を見学。


アブ・シンベル神殿の「音と光のショー」は、大神殿と小神殿を併せた幅広い岩肌を一つのスクリーンとして、遺跡・レリーフの映像とナレーションや音楽を上手くミックスして、約35分のショーとしています。時々大神殿・小神殿をライトアップして映像効果を更に高めたりしていました。

大神殿





小神殿






全体35分の「音と光のショー」の一部を抜出した映像(+ナレーション+音楽)がこちら

アブ・シンベル 音と光のショー








次の日(ツアー3日目)は、アブ・シンベル神殿での朝日を浴びる事から。AM5:00起床で3度目のアブ・シンベル神殿へ。

着いた時は当然、日は昇っていませんから前の晩からの夜間照明が残った状態で、月も未だ明るい状態でした。






いよいよ、日が昇ります。その様子を撮影しています。ゆっくり見てください。

アブ・シンベルでの朝日






日が昇れば、アブ・シンベル神殿を真横から日が射して影も長いです。

朝日で影が長く伸びています






朝日の当たるアブシンベル大神殿





 
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2009年03月01日

エジプト旅行(7):アブ・シンベル神殿の見学

エジプト旅行の全体行程などについては、以前の投稿にあります。



ツアー2日目の夕方近くにアブシンベル(Abu Simbel)に到着。早速、アブ・シンベル神殿(大神殿、小神殿)を見学しました。

アブ・シンベル神殿は、新王国時代のラムセス2世(Ramesses II)が作ったとの事ですが、解説はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照(アブ・シンベル神殿ラムセス2世第1王妃ネフェルタリ)。



まずよく見る写真ですが、これが大神殿のラムセス2世の座像。



あるガイドブックに、大神殿のラムセス2世像は「1体毎に表情が微妙に異なる」と書いてありましたが、ガイドによると年齢差によるもののようです。つまり、左から27歳、47歳、78歳、97歳という事が像の足元に彫られているのだそうですが、私には文字(ヒエログリフ、Hieroglyph)が読めないので真否の確証はありません。ウィキペディアでは「諸説あるが、24歳で即位し、66年間統治し、90歳で没した・・・」とあります。細かい年令の問題は別にしても、年令による違いであるといわれると、表情だけでなく体全体もそのような若さ・風格・老いを感じますが如何でしょうか。



こういう角度だと大きさが感じられるかもしれませんネ。いたずら書きがされています!




これが小神殿の外部の全体、左から王像(ラムセス2世)、王妃像(ネフェルタリ)、王像、(内部への入口)、王像、王妃像、王像となっています。




大神殿の上部にはヒヒ像が何頭も祭られています。ガイドからの(これも私には真否の確証の無い)話しでは、ヒヒは太陽光に当たり暖かくなると体が痒くなって激しい動作をする(という事のようです)が、古代エジプト人はその動作を見て太陽神ラーとの関わりからヒヒを崇めたとの事。




映像としては神殿内での撮影は禁止になっています(持ち込みは可能)から、外から映したものしかありませんが、入口の直ぐ近くから内部を撮るのは禁止とまでは言われないらしいので、大神殿の内部を撮影したのがこれ(内部の映像は露出の調整ができていませんが・・・)。




flickrには、大神殿の一番奥にある至聖所の写真があります。



右から太陽神ラー・ホルアクティ、神格化されたラムセス2世、王の守護神アメン・ラー、宇宙の創造神プタハです。年に2回、2月22日と10月22日に朝日が奥の至聖所まで届くといいます。今年も我々の訪問日と近かったのですが、1万人以上が押しかけるだろうとの事。勿論、そんなに多数の人が神殿内部に入れる訳もなく(精々数十人?)、場所取りは早い者勝ちの競争だそうです。


アブ・シンベル神殿(大神殿、小神殿)は、アスワン・ハイ・ダムの建設で湖底に沈む所であったのが、ユネスコの協力で元の位置から約60m上に移転しています。その為に、方向は従来あった場所と同じにしてありますが、ガイドが言うには朝日が至聖所まで届く日が1日づれる事になったといいます。つまり、以前は2月21日であったのが2月22日に、10月21日であったのが10月22日に。


しかもガイドの説明では、2月21日はラムセス2世の誕生日、10月21日はファラオになった日といい、ラムセス2世の顔にだけ光が当たるのだとか。


自らを神格化して太陽神ラーと同格である事を示そうとするファラオですから、このような特定日に何か意味を持たせたであろう事は理解できますし、他の神と並びながら自らを神格化した像に朝日が当たるようにすると考えるのもあり得る事です。

いずれにしても、私にはどこかに書いてあるとかの確証がある訳ではありません。



尚、神殿内部の撮影は現時点でできませんので、flickrに登録してある幾つかの写真を紹介しておきます。

大列柱室から前室、至聖所



大神殿の列柱室




小神殿の列柱室



大神殿大列柱室のレリーフ




 
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2009年02月28日

エジプト旅行(6):アスワンへ、そして砂漠の中をアブ・シンベルへ

エジプト旅行の全体行程などについては、以前の投稿にあります。


ツアー初日はギザの三大ピラミッドやサッカラとダハシュールでのピラミッド見学が主な所でした。


ツアー2日目は、アスワンとアブシンベル神殿ですが、初日はカイロに泊まっていますから、まず、カイロ空港からアスワン空港まで飛行機で1時間30分ほどで到着。


アスワンからアブシンベルまでは280kmあるそうですが、観光バスで警察護衛によるコンボイを組んで進むスケジュールになっています。コンボイを組む車両は、今回のツアーではアスワンの特定の場所にAM11:00集合となっているのですが、その前にアスワン市内の観光をするという非常に盛り沢山なスケジュールの為、実は、AM2:00モーニングコール、AM3:00ホテル出発、AM4:45カイロ空港を飛び立って、AM6:45頃アスワン空港を観光バスで出発というスケジュールだったのです。


市内観光は、アスワン・ハイ・ダム(Aswan High Dam)と「切りかけのオベリスク(Unfinished Obelisk)」。



アスワン・ハイ・ダムについては、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照。


アスワン・ハイ・ダムでは、ダム上(中央)にある展望地点に降りて雄大な景色を見ました。しかし、ダムの防衛の為(破壊活動があれば経済的な損害だけでなく、下流の住民への被害は甚大でしょう)の軍事施設があるとかで、ビデオは禁止、望遠レンズ付きのカメラも駄目。スナップ写真程度にするようにとのガイド指示。

ナーセル湖



記念塔



下流に向かって(下流には、アスワン・ダムがあります)




AM7:00朝日(右がナーセル湖)




ヌビアの人たちの実際の家の内部まで見せてくれるというオプショナル・ツアー(2時間程度)がありました。私は参加しませんでしたが、このオプショナルツアーに参加した人の話しでは、住民の生活が判って非常に良かったという事でした。
非常に盛り沢山なスケジュールでこの日も寝る時間が殆どなかったのと、ツアー2日目から頑張り過ぎないようにという事で、私は自由な市内散策と仮眠をとりました。


市内散策は大通りを歩いただけですが、立派なコプト教会があったり、観光用の船着場など、落ち着いた雰囲気でした。船着場は、ツアー3日目にファルーカ(帆掛け舟)でナイル川遊覧・夕食レストラン・ホテルに行くのに使いました。


コプト教会



船着場




一旦ここからアブ・シンベルに行き、次の日(ツアー3日目)に戻ってきて市場の見学をしましたが、市場は(別途と投稿しますが)賑やかでした。

尚、ヌビアやコプト教については、別途投稿したいと思います。



さて、アスワン市内観光の2つ目は、「切りかけのオベリスク(Unfinished Obelisk)」。解説(英文)はこちら


下の写真は、Wikipedia(英語版)から借用していますが、撮影の1990年時点では未だ遺跡の上に乗る事ができたようですネ。



但し、この写真は画像処理で左右を反転させたもののようです!!??

実際に私が同じ様な角度で撮影したものがこれ



これを左右反転処理したのがこれ




さて、この後はアブシンベルに向けて、警察護衛の観光バス・コンボイの中に入って、砂漠に敷設された自動車道を280km程ひた走ります。
下の地図を見てください。

Egypt_Aswan_WesternDesert_RoardMap.jpg


アスワンからアブシンベルに向けて道路が描かれていますが、その横にある湖がアスワン・ハイ・ダムで作られるナーセル湖(長さ550km、面積は5,250 km²)です。アスワンからアブ・シンベルまでは3時間ですが、殆ど真直ぐの道路を280km程走る以上の大きさを持っている事になります。



その道路から見られるのは殆どが砂漠の景色。よく写真できれいに写る砂漠とはイメージが違いますが、これも砂漠。緑が時々見られるようになるのは、3時間の行程の内の後半45分程。ナイル川(ナーセル湖)からの誘導水路や、ナイル川(ナセル湖)が増水した時の逃し水路も整備されていました。


この日は朝が早く、ただただ砂漠を走るというのは睡眠時間としては良かったのですが、できるだけ映像に収めてみました。それを編集したのがこれ

エジプト・アスワンからアブ・シンベルまで、観光バスから見た砂漠



 
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2009年02月26日

エジプト旅行(5):古王国時代の首都メンフィス

エジプト旅行の全体行程などについては、以前の投稿にあります。


ツアー初日は午前がギザの三大ピラミッド、午後がサッカラとダハシュールでのピラミッド見学でした。


実はその間にメンフィス(Memphis)を見学しています。メンフィスについてはここを参照。



古代エジプトも3000年からの歴史があるので、隆盛期を中心に見る(その中間は混乱期?)と、
  • 古王国(ジェセル[階段ピラミッド]、クフ、カフラー、メンカウラーなど)
  • 中王国(メンチェヘテプ2世)
  • 新王国(ハトシェプスト[葬祭殿]、トトメス3世、アメンヘテプ3世、ツタンカーメン、ラムセス2世など)
  • プトレマイオス朝(クレオパトラなど)
になるとの事。


メンフィスは古王国時代の首都であった所。巨大神殿や宮殿が点在するという事ですが、メンフィスの遺跡として観光できるのはそのごく一部で、建物の遺跡は無く、狭いエリアにラムセス2世の像やスフィンクスなど。


メンフィスにおけるラムセス2世像は、巨像と立像があります。


巨像は足首から下を破損している為、建物内で横たえて保存されています。写真を見れば判る通り、文字通りの巨像でした。ガイドブックによると、カイロ市内のラムセス中央駅前には、この巨像の一対であるもう1体が立っているとの事(本物が・・・!)ですが、残念ながら確認していません。


ラムセス2世の巨像(この角度は一番写真写りが良いようです)





別の角度から見ると、残念ながら大分損傷していますが、残っているの出来は素晴しい・・・・





もう一つ良くガイドブックに出る写真が、このラムセス2世の立像





ラムセス2世の立像は、実はここメンフィス遺跡エリアに2体あります。もう1体が、このラムセス2世の立像






スフィンクスはアラバスター(雪花石膏、大理石の一種)を材料としていて、全長8m、高さ4.25mとの事。の部分の保存状態はいいです。









 
posted by 鎌倉太郎 at 19:43| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記-エジプト | 更新情報をチェックする

2009年02月25日

エジプト旅行(4):カイロ爆発事件のハン・ハリーリ市場


カイロのハン・ハリーリ市場(Khan al-Khalili Bazaar)の近くで、22日に爆弾テロ(?)がありフランス人観光客ら4人が死亡、多数のけが人が出たとの報道がありました。



丁度1週間前のツアー6日目の同じ日曜日に見学に行っていました(犯行は夕方、我々は午前)。報道だけでは場所の特定はできませんが、YouTubeにアップされたBBC Newsの現場と思われる映像を見ると、それはエル・フセイン・モスクの塔(ミナレット。解説はここを参照)の下で、私達ツアーの集合場所にしていた所ではないかと思い、ドキリ。


Tourists hit by Cairo bomb blast





亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。



さて、ハン・ハリーリ市場は古くからの市場で観光名所となっており、観光客のお土産センターとして観光客は必ず訪れる場所との事。

ハン・ハリーリ市場は、エル・フセイン・モスクとカフェの間の緑の木のある付近が入口





両サイドはこんな様(向かって、右:モスク左:カフェ)です。









ガイドから案内されたルートは下の通り。






暫くはハン・ハリーリ市場は観光コースから外れてしまうでしょうが、ツアーで訪れた際は大変賑やか。「ワン・ダラー、ワン・ダラー」とか「サンマイ・センエン」と声を掛けられます。日本人観光客と見れば、意味も分っていないでしょうが「ヤマモトヤマ」とか、(午前中なのに)「こんばんは」、「ラストサムライ」などと、注目させて店に呼び込もうとします。
(ハン・ハリーリ市場の賑やかな写真は控えます)

ツアー同行者は心得たもので、何か土産物を買おうという意識より、(勿論、土産にするのですが)小さいものを買ってでも価格交渉をするのが楽しみといった雰囲気でした。


今回の事件で、こんな賑やかな雰囲気と価格を下げてもらう交渉の楽しみが、暫くできなくなるのは残念です。


 
ラベル:古代エジプト
posted by 鎌倉太郎 at 23:29| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記-エジプト | 更新情報をチェックする

2009年02月24日

エジプト旅行(3):エジプト・ピラミッド建設の歴史的足跡

エジプト旅行の全体行程などについては、以前の投稿にあります。


ツアー初日はピラミッド見学でしたが、前2回はツアー初日午前のギザのピラミッド・エリアでした。今回はツアー初日午後の見学地であるカイロから西南におよそ20kmのサッカラ(Saqqara)と、そこから南4kmにあるダハシュール(Dahshur)。


まず、サッカラには階段ピラミッド(Step Pyramid)コンプレックスがあります。


ジェセル(Djoser)王によって建設された(イム・ホテプ(Imhotep)が関与)という事です。ジェセル王についてはこちら(英文)。



建設の方法乃至流れとしては、古代エジプトでこれ以前からあったマスタバ(Mastaba)墳を何回かの工事を繰り返して階段状にしたものであるとか。ですから、今回のガイドなどはピラミッドではなく、「階段状マスタバ」の方がいいといっています。

マスタバについてはこちら(英文)。




また、高さ62メートル、東西125メートル、南北109メートルという長方形の底面を持っているとの事ですから、正方形の底面をもつ後代のピラミッドと違うコンセプトで作られているのは確かですネ。


そうはいっても階段ピラミッドをヒントに、真正ピラミッドとして設計・建設を始めるようになった訳ですから、(世界で)最初のピラミッドといってもいいのかも知れません。





サッカラでの観光コースとしては、当時の王宮のスタイルという門を入って、列柱を通り抜けて中庭に入って、階段ピラミッドを南側から見る所まででした。ガイドブックによると北側には葬祭殿があるとの事ですが、遺跡が不安定な状態にあるのでしょう・・・・・


下のYouTube動画では、階段ピラミッドの拡張工事の模型図や、完成当時を再現する3D映像と現状の遺跡との配置対応を示してくれます。

The Step Pyramid at Saqqara in Egypt






このYouTube動画の一部映像を使って、門(入口)・列柱・中庭を示すと以下の通り。





これを認識して、階段ピラミッドコンプレックスを撮影したYouTube動画を見てください。

ジョセル王のピラミッド・コンプレックス





特に驚いたのは、門(入口)に残るこの正確な石積みが紀元前2650年頃であるという事。






ツアー初日の午後のピラミッドめぐりには、ダハシュール(Dahshur)にある屈折ピラミッドと赤のピラミッドもありました。


この2つのピラミッドは、スネフェル(Sneferu)王(クフ王の父)による建設との事ですが、屈折ピラミッド(Bent Pyramid)は失敗作で、赤のピラミッド(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では、「赤いピラミッド(Red Pyramid)」)はリベンジ作という意味あいがあるようです。
解説は、ここここを見てください。

スネフェル王については、こちらを参照。



今回のツアーでは、赤のピラミッドはバスから下車して近くから見ただけ(ツアーの同行者には一部入口まで上った人がいます。内部には入れるようです)、屈折ピラミッドは遠くから薄っすらと見ただけでした。ここでは、ピラミッド・コンプレックスの形が(形が成されていたのか)分りませんでした。


赤のピラミッドの入口の写真はこちら






赤のピラミッドから屈折ピラミッドを見た状況はYouTube動画にしています。以前の投稿では、砂嵐(といえるほどでもない)中での写真を掲載しています。

エジプト・ダハシュールの赤のピラミッドと屈折のピラミッド






さて、エジプトのピラミッド建設技術の変遷を見る為に、簡単な比較表を作ってみました。



(クリックで拡大)


スネフェル王が、赤のピラミッドでは確実性を訴求しているのが分りますし、クフ王はあらゆる点でスネフル王を超える目標としています。逆にカフラー王は父・クフ王への遠慮からか、ピラミッド自体の規模ではクフ王のピラミッドを若干劣るように作られているのが分ります。しかし、下の写真はクフ王のピラミッドの底面の位置からカフラー王のピラミッドを撮った写真ですが、明らかに底面の位置がカフラー王の方が高いのです。







結果的に、カフラー王のピラミッドのトップの方が、2.5mの差を逆転して高い事になります。


これらからクフ王の代だけで急激に技術や色々な環境が良くなった訳ではなく、蓄積した技術・知識に基づくものである事が分りました。更に、クフ王のピラミッド建設の責任者は、スネフル王時代の技術を持った者にしたという事ですし・・・・・



 
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2009年02月23日

エジプト旅行(2):スフィンクスと太陽の船

前回は三大ピラミッドでしたが、ピラミッドエリアのピラミッド・コンプレックス(Pyramid Complex)を構成するスフィンクスも、当然の事ながら見所(解説はこちらを参照)。しかし、近寄れませんのでビューポイントからの写真のみ。これも良く見かける写真と同じ様ですが掲載しておきます。




ガイドの説明の中で、江戸時代にピラミッドを背景にとった日本の武士の写真があるとの事で探してみました。それがこれ


良く見れば、見えているのはスフィンクスの頭部のみ、この時には未だ殆どが埋もれていた事になります。


尚、ガイドの話では、現在見えているスフィンクスは1つだけですが、実はそれはカフラー王のものであって、クフ王のスフィンクスはある店の下に、メンカウラー王のスフィンクスは現代の墓の下にあるとの事。夫々問題があって掘り出せないのだといいます。(衛星写真で分っているとの事ですが、本当ならスフィンクスについて言われる多くの謎の1つが解決されますネ)



ピラミッド・エリアでのもう一つの見所が、太陽の船博物館(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では、「クフ王の船(Khufu ship)」。解説はこちら)。



大きいので全体を上手く写真にする事ができないので、博物館にある模型の写真がこれ



実際に発掘されたクフ王の船については、動画としてYouTubeに登録しましたので見てください。(注:太陽の船博物館はビデオ・カメラ共に持込みも撮影も可能ですが、三脚は許可されず入口で預ける必要があります)



これは第一の太陽の船といわれているものですが、早稲田大学・吉村教授のチームが発見した第二の太陽の船は未発掘です。
その発掘については、プロジェクトが既に作られているそうです。ここを参照。その記事によると、
「現在、吉村教授を所長とするNPO法人太陽の船復原研究所がこの『第2の太陽の船』を発掘・復原するプロジェクトを進めている。完成は2012年の予定だ」そうです。




ここで参考までに、ピラミッド・エリアにおける入場料(2009年2月10日現在)は、
・ピラミッド・エリアへの入場料: 60L.E.   (必須)
・クフ王ピラミッド内入場料  :100L.E.   (オプション)
・太陽の船博物館入場料    : 50L.E.   (オプション)
(L.E.は、エジプト・ポンド。ここを参照。2月21日時点では、1 ポンド = 16.62円)


因みに、ルクソール地区遺跡への観光入場料(最新情報は別途確認が必要)は、ここを参照してください。


要するに、各遺跡への入場料はオプションとしてあるのを含めて、馬鹿にならない金額になる事を認識しておく必要があります。幸い、パック・ツアーになっていましたので、旅行中は殆ど総計金額について気にしなかったのですが、ブログにまとめている中で驚いている所です。


 
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