2009年03月17日

エジプト旅行(21):エジプト考古学博物館(1)

エジプト旅行の全体行程などについては、以前の投稿にあります。



ツアー最終日になった8日目は、エジプト考古学博物館見学。この博物館についてはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照(英語版はこちら)。

エジプト考古学博物館の公式サイトはここのはずですが、現状は開けません。



ビデオ/カメラの持込みは禁止(以前は料金を払えば、可能だったのですが・・・・)なので、ガイドの説明があった展示品について、Webサイトで掲載している写真を借用してガイドの説明を付加しておきます。

ガイドのポイントとなる展示品の説明を聞きながら、ざっと見るには2時間でも可能です。しかし、それと同じ展示品だけを見るにしても、ガイドブックの記述などを参考に一点毎にある程度満足するまで見学するには、1日の開場時間を全て使っても足りそうもありません。
今回のツアーでの見学時間は全体で3時間でした。これでも他のツアーから比べると多い方のようですが・・・・・・・



今回のガイドの説明ルートは、古王国時代とツタンカーメン王の秘宝、それにミイラ室に限られていたといってもいいでしょう。実際にガイドの説明を受けたものを紹介しておきます。ツタンカーメン王の秘宝エリアは次回に投稿します。

ガイドから言われた事ですが、これまでの「エジプト各地を見学して勉強した復習」という訳です・・・・・・


年代順に古王国時代から入りますが、まずは博物館の入口から左方向の47号室(通路?)の方向へ進みます(2種類の違う系統のガイドブックで、同じ番号系を採っていますので、恐らく博物館側で設定した番号を流用しているのでしょう・・・)。

1階のレイアウト



入口を入って直ぐ左前にラムセス2世像。エジプト各所の神殿などの建設に関与していますので、アブ・シンベル神殿(投稿はここ)・ルクソール神殿(投稿はここ)など以前の投稿でも紹介しています。今日エジプトが観光立国であり得るのも、このファラオのお陰という事になりますので、年代エリアを超越して入口に設置されているのでしょうか・・・・・・・

Ramses II




47号室内には、エジプトのピラミッド建設に関わったファラオの像。

サッカラの階段ピラミッドを建設したジェセル王(投稿はここ)。

Pharoah Dsojer




もう一体がギザの三大ピラミッドの1つを造ったメンカウラー王の像(投稿はここ)。第3のピラミッド内で発見されたそうです。

Menkaura




中央はメンカウラー王、左はハトホル女神ですが、右は諸説があるようで、(複数作られていて)上下エジプトを各々表す地方(州)の神(の一つ)であるとか、メンカウラー王の后であるとか・・・・・・・こちらも見てください。右の頭上のレリーフの違いに注意。




入口から入って1階を時計回りに巡ります。47号室(通路)を過ぎて右に回ると42号室で、ここのテーマは役職の者の像。


まず、ギザの三大ピラミッドの2番目を造ったファラオ・カフラー王(Khafre)で、後頭部にはホルス神が羽を広げて守護しています。

Cairo Ancient and Modern




世界最古の木造肖像彫刻といわれる神官(官僚?)カー・アペル(Ka-aper)の像。発見者の村の村長に顔が似ていたので、「村長の像(The Sheik-el-Beled)」というニックネーム・・・・・。

Sheik-el-Beled




書記の坐像(Seated Scribe)。ルクソール博物館でも書記を紹介(投稿はこちら)していますが、こちらの書記像の保存状態は特に良いものであるとか。

Cairo Ancient and Modern




隣の32号室。その中から37号室へ行くようになっていました。(掲載のレイアウトと若干違います)
ここは微笑ましい夫婦をテーマとしているようです。


32号室には、王の衣装係だったといわれるセネブと家族の像(Seneb and his wife)。セネブは小人症ですが、このような配置にする事で、家庭の温かさを示すと共に見る側に安堵感を与えてくれます。子供が口に指を咥えているシグサは、この時代の幼児の定型的な表現法との事。

Seneb - Cairo museum



発見場所は、カフラー王のピラミッドの北にあるセネプの墓であるという話しと、クフ王のピラミッドの横にある娘のピラミッドに入っていたという話しがあります。後者の話しから、セネブの妻とはクフ王の娘で、小人ゆえにクフ王が結婚を許さなかったが、5回目(?)の申入れで許されたという話しに繋がっています。(裏付けの資料はありません・・・・)



32号室にはもう一つの夫婦像、ラヘテプとその妻ネフェルト(Rahotep and Nefert)の像があります。ラヘテブはクフ王の兄弟で神官であったといます。尚、ラヘテプが右親指を立てるのは「愛している」事を伝え、妻ネフェルトが右手を胸に置くのは尊敬を示すそうです。

Cairo Ancient and Modern




37号室は、クフ王の母であるヘテプヘレス王妃の特別展示室になっていますが、その片隅に現存する唯一のクフ王の像があります。高さは7.5cm。

DSC06498




26号室(通路)にはメンチュヘテプ2世像があります。メンチュヘテプ2世(Mentuhotep II)は、古王国時代後期の混乱を収めエジプトを再統一して、中王国時代の基礎を作ったファラオです。解説はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「エジプト第11王朝」の項を参照(英語版は"Mentuhotep II"の項を参照)。


piedra pintada




第11号室(通路)にはハトシェプスト女王の頭部像があります。これまでに投稿したように、ハトシェプスト女王葬祭殿(投稿はこちら)を造った当人ですが、ハトシェプスト女王のオベリスク(投稿はこちら)と同様に、トトメス3世から事跡を抹消された為に殆どのレリーフや像が壊されました。葬祭殿の砂の中から発見されたといいます。

Hatshepsut large head



 
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2009年03月15日

エジプト旅行(20):アレクサンドリア市内観光(2)

エジプト旅行の全体行程などについては、以前の投稿にあります。



ツアー7日目はアレクサンドリア市内観光では、カイトベイの要塞、カタコンベ、ポンペイの柱、アレクサンドリア博物館を訪れましたが、今回はアレクサンドリア博物館。



アレクサンドリアでの博物館としては、別途5年計画で改築(建替え)をしているそうで、その一部の収蔵品が展示されています。現状の「アレクサンドリア博物館」というのは、建替えの為に完全に休館するというのは問題であるとして、ある富豪が自分の私邸の利用を申出た事で実現したもの。いくら富豪といっても本来の博物館と比べれば小さく、3階建てで階段を中心に両サイドに、各フロアでいくつかの部屋を使った小規模な展示となっています。


アレクサンドリアの沖の海中では、クレオパトラ縁の町跡が発見された事もあり、それらの一部でも展示してあるかと期待していたのですが、それらの展示は一切無しとの事。
クレオパトラ縁の町跡の各種遺跡などは、海中ミュージアムとして見せられるように企画を進めているとの事でした。


ここはビデオ/写真は自由に撮影できました(フラッシュは不可)ので、以下に幾つかの展示品を掲載しておきます。有名なものも含んでいます。(サムネイルのクリックで拡大)


































 
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2009年03月14日

エジプト旅行(19):アレクサンドリア市内観光(1)

エジプト旅行の全体行程などについては、以前の投稿にあります。



ツアー7日目はアレクサンドリア市内観光として、カイトベイの要塞、カタコンベ、ポンペイの柱、アレクサンドリア博物館に訪れました。


まず、カイトベイの要塞。カイトベイの要塞は15世紀の建設という事で、それ自体歴史的なものですが、特に観光コースに入っているというのは、「古典古代における世界の七不思議」の一つであるアレクサンドリアの大灯台(ファロス島の灯台)があったからです。

アレクサンドリアの大灯台(想像図)



古典古代における世界の七不思議(Seven Wonders of the Ancient World)」についてはこちらを参照(英語版はこちら)。

アレクサンドリアの大灯台(Lighthouse of Alexandria)についてはこちらを参照(英語版はこちら)。


クフ王のピラミッド以外は全て崩壊・消滅してしまったのですが、アレクサンドリアの大灯台の残材を使って、カイトベイの要塞を建設したという事です。

以前の記事にも書いていますが、この時に強い風と(エジプトにとっては珍しい)雨に見舞われて早々に退散。




次がカタコンベ。カタコンベ(catacomb)とは、一般的に地下の墓所であるとの事。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(英語版はこちら)を参照。



アレキサンドリアのカタコンベはエジプトで最大のものといわれ、「コム・エル・シュカファのカタコンベ(Catacombs of Kom el Shoqafa)」と呼んでいます。Wikipediaの英語版に解説があります。



この入口チケット売り場から先は、ビデオ/カメラが持込み禁止なので、Webサイトの写真・図を借用します。

地下への入口はここ



地下のレイアウト下図のようになっています。



入口からは螺旋階段で右下の小さい方の円部分を降りていきます。降りきった所で大きい円と四角のエリアにでます。四角のエリアは、宿泊できるようになっていて、お参りに来た人たちが2~3日間をここで過ごすのだそうです。
大きい丸のエリアから左上の方向は下りる階段になっていて、その先は礼拝所になっていたようです。その写真がこれ



礼拝所の周りの区切られているエリアがこの写真



現在、このレベルのもう一つ下まである事が判っているのですが、地下水が上がってきて浸水状態だそうで降りる事ができません。



次が「ポンペイの柱」。



柱1本とスフィンクスが2体(見辛いですが・・・)あるだけですが、その建立の背景・経緯などは良く判っていないようです。

ローマ皇帝ディオクレティアヌスが建てた図書館の跡とか、セラピス神殿から一部を持ってきた(だけが残った)ものとも、ローマ皇帝の食糧支援に感謝した市民が立てた(ルクソールから持ってきた?)とも云われており、よく判っていないというのが実際のようです。
「ポンペイ」という背景についてはよく判りませんが、こちらも参考にチェック。


尚、日本のガイドブックなどでは、日本語では「ポンペイの柱」でアレクサンドリアの遺跡を指しているようですが、英語の用語としては、「Pompey's Pillar」と「'Aamuud is-Sawaarii」の何れかが使われています。

encyclopedia Britannicaでは「Pompey’s Pillar < monument, Alexandria, Egypt >」を、Wikipediaの英語版も「Pompey's Pillar」をアレクサンドリアのモニュメントとして使っています。
Googleの書籍検索の場合も、「Pompey's Pillar」であれば多数の検索結果が出てきますが、「'Aamuud is-Sawaarii」では0件という状況。



それよりもっと重要な新情報では、2007年にこの遺跡の地下に倉庫(図書館?)が見つかって、パピルスの書籍が数千点発見されたとの事。プトレマイオス1世によってアレクサンドリアに建てられたアレクサンドリア図書館の蔵書であった一部ではないかというのが、今回のツアー・ガイドの説。
アレクサンドリア図書館(Library of Alexandria)」についてはこちらを参照(英語版はこちら)。


実際にその地下通路に入りましたが、(地下深くまで続いているようですが、帰れなくなると困るので・・・・)途中で引き返しました。何か新しい事実がわかると良いですネ・・・・


尚、今の新アレクサンドリア図書館は、焼失したアレクサンドリア図書館の精神を引き継ごうと2002年に開館しています。


近代的な建物が新「アレクサンドリア図書館




参考までに、アレクサンドリアはカイロに次ぐ第2の都市で、海岸に沿った道路にビルがずらりと並び、素晴しい景観はどこかのリゾート地のホテル群のように見えました。ツアー6日目夕方と7日目朝の海岸通りの写真を掲載しておきます。


夕方の海岸通り



朝の海岸通り



 
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2009年03月13日

エジプト旅行(18):ムハンマド・アリー・モスク

エジプト旅行の全体行程などについては、以前の投稿にあります。



ツアー6日目はルクソールから空路カイロへ。カイロ到着後はハーン・ハリーリ市場とムハンマド・アリー・モスクを見学した後直ぐに、アレキサンドリアに向けてバスで移動しました。


ハン・ハリーリ市場については、以前に投稿しています。

エジプト旅行(4):カイロ爆発事件のハン・ハリーリ市場【2009年02月25日】


本稿では、ムハンマド・アリー・モスク(モハメド・アリ・モスク、Mosque of Muhammad Ali)を中心に書きます。
ムハンマド・アリー・モスクの解説はこちら(英語版のみ)。Wikipedia以外の日本語ではこちらを参照。



ムハンマド・アリー・モスクは、カイロのイスラーム地区の南東の丘に立つシタデル(citadel)内にあります。シタデルとは町を防御するための要塞ですが、しばしば、王の住む城の事も指します。ここを参照。


実際、カイロのシタデルは、十字軍阻止の為に1176年に建設されてから、ムハンマド・アリー朝(Muhammad Ali Dynasty)などの城壁及び居住空間として使われたそうです。ムハンマド・アリー(Muhammad Ali)についてはこちらを参照(英語版はこちら)。



ムハンマド・アリー・モスクは、ムハンマド・アリー朝時代にビザンチン様式で建設され、ドーム型の天井から吊るされたランプの光が素晴しい。このモスクのベストショットポイントはここ、チケット売り場から坂を上りきった所だそうです。








尖塔ミナレット(Minaret)。解説はこちらを参照(英語版はこちら)。




中庭の時計台は、フランスにルクソール神殿のオベリスクを贈った(?)際のお返しだそうで、当時の時計としてはイギリスのビッグベン(Big Ben)などと同じ様に貴重なものであったようですが、後の整備ができていなくて現状は動かず邪魔者扱いのようです・・・また、泉亭(信者が礼拝の前に清める場所)は清掃中のようでした。




モスクからカイロ市内を見渡す事ができます。写真の中央遠方にはギザのピラミッドが見えます(サムネイルをクリックして拡大)。




 
ラベル:神殿
posted by 鎌倉太郎 at 17:14| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記-エジプト | 更新情報をチェックする

2009年03月12日

エジプト旅行(17):ルクソール西岸(2)

エジプト旅行の全体行程などについては、以前の投稿にあります。


ツアー5日目の午前がルクソール西岸観光でした。メムノンの巨像、王家の谷、ハトシェプスト女王葬祭殿の順で回りましたが、今回はハトシェプスト女王葬祭殿が中心です。



ハトシェプスト女王葬祭殿は、彫像やレリーフも素晴しいのですが、最大の魅力はその建物自体と共に、建築が自然の地形によく調和しつつそれでいてそれを上手く利用した点にあると感じました。

ハトシェプスト女王葬祭殿(Deir el-Bahri)の解説はこちら(英語版はこちら)。

ハトシェプスト女王(Hatshepsut)についてはこちら(英語版はこちら)。



言葉よりも写真を見てもらった方が早いと思います。


ハトシェプスト女王葬祭殿左奥には王家の谷からも見える山の頂が見え、背後の岩が迫っていながらそれを跳ね返すような建築。葬祭殿の前の2段の広~いテラスは、これを2回に分けて見せる為に設計されているのではないでしょうか。











そして傾斜道を上りきった所で振り返ると、ルクソール(旧テーベの都)が眼下に見えるというストーリーは素晴しいの一言。






勿論、彫像やレリーフも素晴しく、彩色も未だ鮮明に残っています。傾斜道の入口にあるホルス神の場所は、記念写真のスポット。


















ハトシェプスト女王葬祭殿の正面から右の崖中腹には、下の写真のように洞穴があります。これは建設作業者の住居跡との事(この方が過ごし易かったようです)。





そこからのハトシェプスト女王葬祭殿の写真がこれ。上からの写真は少ないですが、写真スポットではあります。





尚、ハトシェプスト女王葬祭殿の背後の岩山の上から撮った映像がこれ





 
posted by 鎌倉太郎 at 15:26| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記-エジプト | 更新情報をチェックする

2009年03月11日

エジプト旅行(16):ルクソール西岸(1)

エジプト旅行の全体行程などについては、以前の投稿にあります。



ツアー5日目の午前がルクソール西岸観光でした。メムノンの巨像、王家の谷、ハトシェプスト女王葬祭殿の順。


まず、メムノンの巨像では見るものは、名前の通りアメンホテプ3世(Amenhotep III)の巨像2体のみ。


しかしこの巨像の後置には、かつてはアメンホテプ3世葬祭殿があったのですが、後のメルエンプタハ王が自らの葬祭殿を作る時の建材にしたといいます。アメンホテプ3世は第18王朝最盛期のファラオであった訳ですから、壮大さは如何ばかりかと推察します。メルエンプタハ王は、セティ1世、ラムセス2世などの第19王朝に分類されていますが、どちらかというと王朝末期のファラオ。第18王朝から第19王朝へは王位の禅譲があったといいますが、末期まで来るとその気持ちが薄れるのでしょうか。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参考)



さあ、次が王家の谷の見学になります。墳墓を観光する(というのも、厳粛ではありませんが・・・)のに、気持ちがワクワクしてしまうのは申し訳ない事ですが、これまでに王家の谷を紹介している墳墓内の映像などが素晴しいので、当然実際に見られる事への期待があった訳です。

王家の谷の入場チケットは80L.E.(エジプト・ポンド)ですが、このチケットでツタンカーメン王墳墓以外の王家の谷にある墳墓の3つまで見られます。ツタンカーメン王墳墓は100L.E.です。(2009年2月現在)

我々のツアーとしては、ラムセス1世・ラムセス4世・ラムセス9世を見ました。そして、ツタンカーメン王を加えた計4ヶ所を見学しました。墳墓の中はビデオ/カメラは一切禁止。王家の谷自体はカメラの撮影はOKです(ビデオは不可)。



まず、ツタンカーメン(Tutankhamun)王の墳墓から。解説はこちらを参照(英語版はこちら)。

ガイドからはツタンカーメンの呼び方について何度もいわれました。というのは、「Tutankhamun」ではなく、「TUT ANKH AMUN」だからとか。厳密に読めば、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でいう通り、"トゥト アンク アメン"となって、「アモン神の生ける似姿」の意味が明確に伝わるようになります。(しかし、正しい発音で使っていけるかな・・・・?なので、ツタンカーメンで通します)


殆どの解説書(Wikipediaを含め)で「Tutankhamun」のように区切らずに用いています。これをローマ字読みにすれば、当然ツタンカーメンとなっても不思議ではありませんネ。
有名な日本語のガイドブックでは「トゥトアンクアムン(ツタンカーメン)」という表現で通していました。
Encyclopedia Britannica」では、「TUT-ANKH-AMUN」や「TUT ANKH AMUN」では検索できませんが、「TUTANKHAMUN」としてなら検索ができました。
一方、The New York Times誌Web版は、「Tut-ankh-Amen」という表現を使っているようです。


英語では「Tut」でツタンカーメン王を指すようですが、どういう経緯で使うようになったのでしょうか・・・・知っている人は教えてください。



話しを本筋に戻して、ツタンカーメン王の墳墓は、このような構成になっています。急死であった事が影響しているのか、レリーフではなく、彩色画になっていました。墳墓自体もラムセス1世やラムセス4世のものに比べて、小さくできていました。



YouTubeに内部を撮影した動画があります。地上の遺跡と違って通常は陽が当たらない事もあって、彩色が綺麗に残っていました。

Views inside Tutankhamen's tomb



我々が見学した時は、玄室の反対側(動画で階段を下りていった突き当りの左)に、ミイラが安置されていました。(玄室を公式カメラマンの撮影をしていた為?)


墳墓は発見された順番に「KVnn」と付けられています。ツタンカーメン王はKV62になっています(現在、最終はKV65となっていますが、その名前が判っていないようです)。





続いて、ラムセス1世(Ramesses I)。解説はこちらを参照(英語版はこちら)。墳墓はKV16。


墳墓の構成はここ



写真で玄室を見てください。

Interior, Tomb of Ramses I, Valley of the Kings, Thebes, Unesco World Heritage Site, Egypt




更に、ラムセス4世(Ramesses IV)。解説はこちらを参照(英語版のみ)。墳墓はKV2。

墳墓の構成はここ



こちらも写真で玄室を見てください。

Rameses IV Tomb




ラムセス9世(Ramesses IX)。解説はこちらを参照(英語版のみ)。墳墓はKV6。


墳墓の構成はここ



玄室の写真を見てください。



 
posted by 鎌倉太郎 at 19:24| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記-エジプト | 更新情報をチェックする

2009年03月10日

エジプト旅行(15):ルクソール神殿

エジプト旅行の全体行程などについては、以前の投稿にあります。



ツアーの全体予定としては、ツアー4日目午後にルクソール神殿を観光する予定になっていました。しかし、予定のツアー5日目午後が余裕の空き時間(各人の自由時間)になっていたので、そこを使ったルクソール神殿見学にツアー予定を変更。


ルクソール神殿は、カルナック神殿にあるアメン大神殿の付属神殿として、アメンホテプ3世(アメンテプ3世とするガイドブックもある)によって建設が始まりましたが、息子のラムセス2世が完成させています。

ルクソール神殿(Luxor Temple)についてはこちらを参照(英語版はこちら)。

アメンホテプ3世(Amenhotep III)についてはこちらを参照(英語版はこちら)。

ラムセス2世(Ramesses II)についてはこちらを参照(英語版はこちら)。



これまで見学した殆どの遺跡毎にラムセス2世が造ったといわれる遺跡があり、エジプトに現在残っている遺跡のかなりの部分(70%以上)でラムセス2世が関係したとの事。



早速、第1塔門から入りました。






第1塔門の入口両側にラムセス2世の坐像。ガイドによるとこんな逸話があるそうです。
「神の生まれ変わりと称されるファラオですが、坐像のどちらが神でどちらがファラオかとの問いに、オベリスクを背負っている方がラムセス神(右)で、他方はラムセス王(左)である・・・・」





判り図らいですから、左側はこれ





右側については写真を撮り損ねたので、写真を借用してみます。右のラムセス2世王(神)の背中にあるのがオベリスクに見えます。








エドフのホルス神殿についての投稿で、コプト教徒が迫害された時代に、ホルス神殿が隠れ家に使われた生活跡を紹介していますが、ガイドの説明によるとここルクソール神殿では、一部が教会の礼拝堂として使われたようです(ガイドブックによっていは、「ローマ時代の皇帝崇拝の場」と解説しているものもあります)。


礼拝堂として使われたと思われる場所に残された漆喰に残る絵これ










ルクソール神殿はアメン大神殿の付属神殿とされていますが、アメン大神殿とはスフィンクスの参道で結ばれていたとの事。
現状は神殿近くだけで後は未だ発掘できていない状況。ルクソール神殿からのスフィンクス参道がこれ。スフィンクスは人の頭部になっています。




一方、カルナック神殿(アメン大神殿)側のスフィンクス参道は牡羊の頭部でしたが、参道の何処で切り替るのでしょうか・・・・・・・
以前の投稿エジプト旅行(12):カルナック神殿(1)」を参照。



ルクソール神殿などエジプトの遺跡は砂に埋もれていた事が多いですが、存在を意識しなかったり遺跡としての重要性を感じない時代には、民家とか現代の墓などが遺跡の上に作られたりしてます。ルクソール神殿でもイスラム教モスクが建てられています。古代エジプト遺跡の中といえども排除する訳にもいかないでしょうが、寧ろ見学した時はモスクを改装していました。






全体的な雰囲気を見てもらえるように、登録済みのYouTube動画を掲載しておきます。

Luxor Temple, Luxor Egypt




 
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2009年03月09日

エジプト旅行(14):ルクソール博物館

エジプト旅行の全体行程などについては、以前の投稿にあります。



ツアー4日目の夕方には、「ルクソール博物館」へ。この博物館は小規模ではありますが、1975年に開設されただけに近代的な建物で効果的な展示方法を採っています。





博物館内はビデオ/カメラの撮影は一切禁止の為、サイトにアップされている写真を使わせてもらい、今回のツアー・ガイドの話しを付加しておきます。

参照しているサイト:
http://www.ne.jp/asahi/y-sakai/fukui/sub49.html
http://www4.airnet.ne.jp/keizo/EGYPT2002/11_LUXOR2/11_luxor2.html



説明で特に印象的であったのが次の2点。

第1点目は、「ワニ神セベクとアメンヘテプ3世」の像。





以前に投稿したコム・オンボ神殿で祭られていたセベク神です。その記事の別のレリーフで、神々から祝福されているファラオには、神の手がファラオの肩に置かれているのを紹介していますが、この像の場合にもセベク神の左手がアメンヘテプ3世の肩に置かれています。彫像ではアメンヘテプ3世の後の衝立に隠れて正面からは見えません。右横から見ると手がファラオの肩の高さに包むように置かれて(実際にはニョキッと手が出ている感じで・・・)います。


セベク神についてはこちらを参照(英語版はこちら)。



第2点目は、「パプの子アメンヘテプ」。





ガイドの説明では、書記はエリートではあるものの、常にファラオの近くに座っている必要があり、三段腹にもなってしまう・・・



木製の牛の頭部(一部金箔、目は水晶との事)だけのハトホル神。ツタンカーメン王の墳墓に収められていたものは、殆どがカイロ「エジプト考古学博物館」に収納されているが、そこ以外で展示しているものでは数少ない遺品の1つ。





ハトホル(Hathor)神についてはこちらを参照(英語版はこちら)。


 
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2009年03月08日

エジプト旅行(13):カルナック神殿(2)

エジプト旅行の全体行程などについては、以前の投稿にあります。

ツアー4日目の午後はルクソール東岸の見学で、まずはカルナック神殿の全体像は前回の投稿で紹介しました。



今回はカルナック神殿内のポイントについて。



第1が、古代エジプトで創造神ケプリの象徴とされ、太陽神と同一視されたスカラベ。日本では「フンコロガシ」といわれますが、古代エジプト人には丸いものを転がしていくというのが(丸いものを太陽と見立てて)、太陽神との関わりを感じたのでしょう。


神聖視されたスカラベの像がカルナック神殿にあります。




この像には言伝えがあって、「3回(ユックリと)回ると願い事が叶う」といいます。この回り方には異説があるようですが、ガイドが言うには上記の通りですので、それに従って願いを持って3回回ってきました。

ビデオも一緒に回りましたので、それをYouTube動画として登録しました。皆さんにも映像を見てもらう事で願い事が叶う(かも知れない)ようにしました。


エジプト・カルナック神殿 スカラベ像の周りを回って願い事を叶えよう!



ケプリ(Khepri)神についてはこちらを参照(英語版はこちら)。



2つ目がハトシェプスト女王のオベリスク。


トトメス2世の死後、トトメス3世は幼かった為、ハトシェプスト女王が22年間にわたり絶対的権力を保有していたといい、ハトシェプスト女王の死後、その事跡(レリーフの顔や名前など)はトトメス3世によって抹消されたといわれています。ガイドによると、ハトシェプスト女王のオベリスク(obelisk)の場合は、(レリーフを削るのではなく)壁で囲ってしまっていたといいます。実際にその壁の跡も見られました。


ハトシェプスト女王(Hatshepsut)についてはこちらを参照(英語版はこちら)。

オベリスク(obelisk)についてはこちらを参照(英語版はこちら)。


ハトシェプスト女王のオベリスク(左側)



ハトシェプスト女王のオベリスク(オベリスクの上部は神に捧げる言葉だけなので覆われなかったという事で、途中から色が変わっているのが判ります)



ハトシェプスト女王のオベリスク(囲っていたと思われる壁の跡)




尚、古代エジプトのオベリスクは、戦利品などでエジプトから持ち出されている事が多く、現在の所在を示す一覧はここを参照。




 
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2009年03月07日

エジプト旅行(12):カルナック神殿(1)

エジプト旅行の全体行程などについては、以前の投稿にあります。



ツアー4日目の午後はルクソール東岸の見学で、まずはカルナック神殿。

カルナック神殿の入口(第1塔門)





カルナック(Karnak)神殿は、中心となるアメン大神殿と、メンチュ神殿・ムート神殿などから構成されて(Karnak temple complex)いて、神殿内に掲載された写真がこれ。現状はアメン大神殿以外は発掘中のようで、立ち入りはできません。アメン大神殿も全てという訳でもなく、見学できるのは赤線で囲った範囲まででした。




カルナック神殿についてはこちらを参照(英語版はこちら)。



アメン大神殿は、古王国時代にはテーベの一地方神であったのですが、中王国時代になって首都になると共に太陽神ラーと習合してアメン・ラー神として国家最高の神になったといいます。

アメン(又はアモン。Amun又はAmen)神についてはこちらを参照(英語版も)。

太陽神ラー(Ra)についてはこちらを参照(英語版も)。



その後は一時イティ・タァウィ(場所の調査は未)に遷都したりしますが、新王朝時代に再びテーベ(現代のルクソール)に戻ってきて、ラムセス2世の時に現状の観光コースになっているアメン大神殿の大列柱室などが完成したとの事。実際には、それ以前のハトシェプスト女王・トトメス3世・アメンヘテプ3世、セティ1世などや、以降の歴代のファラオも増築・改築を繰り返したようで、プトレマイオス朝の時代の建造もされて遺跡に残るなど、結果的にエジプト最大の神殿となりました。



レリーフの素晴しさもありますが、ここでは神殿の大きさや大列柱の森といってもいいような134本といわれるその数に感動。


第1塔門に至る参道の雄羊の頭部を持つスフィンクス(両側にあります)




スフィンクスは本来、ライオンの身体と人間の顔を持っているとされていますが、エジプト・中王国以降は最高神アモンの聖獣である雄羊の頭部を持つスフィンクスが、神殿の守護者として神殿前面に置かれたとの事(ここを参照)。



第1塔門をくぐると中庭になり、大列柱室の前にある第2塔門






大列柱室(柱は勿論梁にもレリーフ。かつては天井もあったとの事)






大列柱(光線や雨の当たらない所には未だ彩色が残っています)







大列柱室で、天井があると光が入らず、折角の彩色レリーフが見えなくなるとして、明かり取りの窓も設置






大列柱室を「聖なる池」の方向から見た所(建築の圧倒的な感じが伝わってきます)






オベリスク(左がハトシェプスト女王のオベリスク、右がトトメス1世のオベリスク)






写真では部分毎の雰囲気しか伝わらないので、カルナック神殿の全体イメージを見てもらえるYouTube動画があります。

Karnak Temple Luxor Egypt





【追記】2009年3月8日 19:10 


 
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