2012年05月23日

悠久 トルコの旅(7):エフェソス遺跡(3)


更に前回の続きです。エフェソス遺跡のマップと最盛期の想像図を再掲しておきます。

エフェソス遺跡のマップ


最盛期の想像図




こちらがケルスス図書館(Library of Celsus、セルシウス図書館)。遺跡マップの[20]、想像図の20です。エジプト・アレキサンドリア図書館(こちらを参照)、ペルガモン(Pergamon、トルコ・イズミール)の図書館(こちらを参照)と並ぶかつての世界三大図書館の一つ(想像図がこちら)。しかし現状で形を留めているのはここだけのようです。


3つの入口の両側に立つ4体の女神像は知恵、幸運、学問、美徳を表わしていて、オリジナルはウィーンの美術館が所蔵しています。


近寄ってみればこちら


中のスペースに入る事ができて、こちらのようになっています。




この図書館の前のマーブル通り(Marble Street )の反対側に娼館(Brothel;遺跡マップの[19]、想像図の19)があります。こちらは図書館側から広場・マーブル通りを撮っていますが、図書館見学者の待ち合わせ場所になって人が立っている背後が娼館という訳です。


マーブル通りには足型で娼館の方向を示す彫り石があります(こちら)。


彫りの解釈には色々な説があるようですが、ガイドによると、足型の右が女性で、その下がお金、足型の左上のハート型の方向が娼館になっています。


 
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2012年05月22日

悠久 トルコの旅(6):エフェソス遺跡(2)


前回の続きですが、エフェソス遺跡のマップ最盛期の想像図を再掲しておきます。

エフェソス遺跡のマップ


最盛期の想像図




こちらヘラクレス(ヘーラクレース、Hercules、ハーキュリーズ)の門。前回紹介している女神ニケのレリーフはこの門のアーチとなっていました。




ここからケルスス図書館の方向を見たのがこちら。この通りが緩やかな下り坂のクレステ通り(Curetes Street)で、遺跡マップの[9]、想像図の⑩です。




クレステ通りの右側にはトラヤヌス(Trajan)の泉(こちら。想像図はこちら)、ハドリアヌス(Hadrian)神殿(こちら。想像図はこちら)が続きます。


名前の素になっているトラヤヌス帝は、ローマ帝国の皇帝で、ローマ帝国史上最大に領土を拡大。遺跡マップの[12]、想像図の⑪です。



ハドリアヌス帝は第14代ローマ皇帝で、五賢帝の1人。遺跡マップの[14]、想像図の⑭です。



ハドリアヌス神殿の横を入っていくと古代の公衆トイレ(public latrine;こちら)があります。遺跡マップの[15]です。


この形はテレビでも良く放映していました。



クレステ通りの反対側(左)にはモザイク画(こちら)が綺麗に残っていました。




次はいよいよケルスス図書館ですが、次回に投稿します。


 
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2012年05月17日

悠久 トルコの旅(5):エフェソス遺跡(1)


第3日目はイズミル(イズミール)を経由してエフェソス(Ephesus、[古代ギリシャ語]Ephesos、[トルコ語]エフェス、Efes)遺跡(とアルテミス神殿)を訪れました。今回のツアーの観光地の中で古代都市遺跡としては最大のスポットでした。しかし、世界遺産に登録されていない・・・

エフェソスはこちら(エーゲ海沿岸地方)。


ツアールート


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エフェソスは、古代ギリシャ時代から共和制ローマ古代ローマ帝国東ローマ帝国に掛けての都市遺跡で、アラブ人の攻撃を受けるようになって放棄する8世紀頃まで経済活動など活発に行われていました。

エフェソス遺跡のマップはこちら


最盛期にはこんな想像図のような景色が見られたようです(裏付けは不詳ですが、イメージが湧きます)。




上記の遺跡マップで[1]のゲートから入りました。まず遺跡マップで[3]が共同浴場で現在の様子はこちら。想像図は①。床下暖房などローマ風呂になっていたそうです。




こちらバシリカ(Basilica)。遺跡マップで[6]に対応する所ですが、長方形平面の列柱に屋根を持った集会施設などの多目的ホールになっていたようです。写真で列柱の左がアゴラ(Agora)と呼ばれる集会や商取引などに利用した広場の跡。


上掲の想像図で③(アゴラ)や④(イシス神殿)を囲んでいる回廊のような部分です。列柱に屋根が載っている光景を想いうかべてください。こちらは教会ですが、中央の長椅子が無いような光景だったのでしょうか・・・



こちらはオデオン(Odeon)でコンサートホールと集会場の両面の役割を持っていたようです。遺跡マップの[4]、想像図の②です。1500人を収容したとの事です。更に小規模なオデオンはトロイ遺跡にもありました(こちらを参照)。




こちらが公会堂(Prytaneion)。遺跡マップの[5]、想像図の⑤です。かつての建物のイメージは全く想いうかびません。一部の柱を発掘後に組立てていますが、濃い茶色の部分はコンクリにしてオリジナルの素材と区別しています。




公会堂の前を過ぎた辺りから下り坂になります。大理石を敷き詰めていますが、滑らないように溝が掘られていました(こちらを参照)。




こちらがポリオの泉(Fountain of Pollio)。遺跡マップの[10]、想像図の⑥です。ポリオは建てた人物の名前。




こちらがドミティアヌスの神殿(Temple of Domitian)。遺跡マップの[11]、想像図の⑧です。ドミティアヌス帝の治世は良くなかったようで、暗殺された後この神殿は取り壊されました。



この辺りには彫った大理石が多数置かれています。例えば勝利の女神ニケ(ニーケー、Nike)のレリーフ(こちら)。スポーツ用品メーカーのナイキはニケの英語読みで、商標もこのレリーフの一部から採られたというのも有名になった話し。




ここから先は次回の投稿にします。


 
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2012年05月15日

悠久 トルコの旅(4):海岸線が綺麗なイズミル


第3日目はホテルを7:00出発、主観光は次回に投稿予定のエフェソス(エフェス)ですが、まずトルコ第三の(人口の多い)大都市イズミル(イズミール、Izmir)に向かいました。

イズミルをこちらの地図で確認しておきます(エーゲ海沿岸地方)。


ツアールート


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イズミルは古くはスミュルナ(スミルナ、Smyrna)と呼ばれて、紀元前1000年頃から町の建設が始まったとの事。文化的・商業的中心地として大きく発展しましたが、東西の支配勢力に左右されてきました。

今回の観光の中にはそのような様子を知る内容が入っていません。海岸線の美しさは「エーゲ海の真珠」と呼ばれる事もあってか、コナック広場(こちらを参照)へ休憩を兼ねての訪問となりました。




時計台は1901年の建築ですが、支配勢力に反抗する激動の歴史を見てきたイズミルのシンボル。また、設置の経緯などは分かりませんが可愛いモスクがあり、壁面にはイズミックタイルが張られて綺麗でした(こちらこちら)。





コナック広場はフェリー乗り場もある海岸沿いにあり、こんな風景。


なだらかな傾斜の丘になっているので、トルコの(訪問した)都市はどこも丘まで住宅地が続きます。海岸線の遠くの丘はこちらのように住宅地。



イズミル市街に入る所で車窓から撮ったのがこちら


イズミル市街中心部でビルの間から見える丘も(車窓から撮って)このようです。



 
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2012年05月10日

悠久 トルコの旅(3):トロイ遺跡


トロイ遺跡(Troy、イリオス、Īlios、トロイア、Troia)といえば、ハインリッヒ・シュリーマン(Heinrich Schliemann)がホメーロス(Homer、ホメロス)の長編叙事詩「イーリアス(Iliad、[ラテン語]Ilias)」を事実と信じて発掘に情熱を傾けたという話し(成功話としての意義付け?)や、トロイ戦争のストーリー(映画に拠る?)と木馬の話しで良く知られた場所ですが、私には現実の時間との関係が不明で遊離していたように感じていました。



まず呼び方にして、私はトロイと呼び慣れていますが、資料によっては(Wikipediaでは)イリオスとかトロイア(例えばこちら)とされ、古代ギリシャ語・古典ラテン語やそのアッティカ方言として表わされます。(神話上で)時代によって支配者が自分に関連して名付ける事もありました。

イリオスはギリシャ神話の1都市で、トロイア戦争(Trojan War)も発端は「ゼウスが、増え過ぎた人口を調節する為に、大戦を起こして人類の大半を死に至らしめる決意を固めた」という事になっていました。神話の上ではイリオスとトロイアとはある地域内にあるものの異なる都市のようです(こちらを参照)が、(ある時代以降?)何か混同しているように思われます。

ホメーロスによって作られたという「イーリアス」は長編叙事詩ですが、叙事詩は「民族の英雄や神話、民族の歴史として語り伝える価値のある事件を出来事の物語として語り伝えるものをさす」というので、民族の成り立ちを強く強調する為の英雄伝・神話と考えれば作り話が殆どという事になるでしょうが、民族の歴史として口伝してきた話しとして解釈する事もできます。シュリーマンは地形の表現が(それなりに)具体的であった事から、(事業に成功したからと云えども、私財を投入したのは)後者と信じて、発掘に情熱を傾けたのでしょう。

しかし、現在のトルコ人からは全く評価されていないようです。それは発掘による財宝などを国外に持ち去ったから。実際にドイツに持ち出された後、現在は(第2次世界大戦時にかなり焼失してしまうが、その一部が)ロシアのプーシキン美術館に所蔵されているようです。シュリーマンについてこちらも参照。



トロイ遺跡の場所をこちらの地図で確認しておきます。


尚、こちらのツアールート地図でトロイ遺跡の位置が誤っていました。


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さて現在のトロイ遺跡に、トロイア戦争の時代を感じさせる事物としては殆どありません。城壁(こちら)と観光用に作られた木馬(こちら)ぐらいでしょうか。





しかし、古代から一ヶ所に何層にも渡って城・街を構築してきた事は、(専門家ではありませんが・・・)遺跡として重要と思われます。現在までに発掘されているのは9層あります(こちらこちらを参照。斜めに写った説明板の写真を変形処理しています)。発掘は城壁周辺だけで、街の広がりを示す周辺一帯は未だ発掘されていません。





第1層は紀元前3000年頃からの集落、第2層はシュリーマンが「イーリアス」に書かれた年代としたもの(実際は紀元前2500年から紀元前2200年のもの)、第6層が紀元前1800年から紀元前1300年、第7層が紀元前1275年から紀元前1240年の頃でトロイア戦争の時代と見られています。第8層がギリシャ人、第9層がローマ人による構築とされ、500年頃に遺棄されたようです。

紀元前3000年頃というと、古代エジプトのピラミッド建設が行われた古王国(紀元前2986年-紀元前2181年)が始まった時代です。



見学コースは決められていて概ねこちらのマップ順路です(見学マップによって層別(年代)認識に差異があるようです。こちらと比較)。

②が上掲の城壁。



見学コースにある遺跡は層によって(ランダムに)分かれた状態で見る事ができますが、こちらは複数層の重なりで見る事ができます。




層による遺跡として形がそれなりに分かるのは、

第6層の坂道 - 城門跡(?)。上掲の見学コースマップの③



第9層 ローマ時代の聖域 - 上掲の見学コースマップの④



第9層のオデオン(Odeon) - 小規模な劇場(?)、ガイドによると限定した人達の議論の場。上掲の見学コースマップの⑤




 
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2012年05月04日

悠久 トルコの旅(2):ダーダネルス海峡をフェリーで渡る【訂正】


成田国際空港からイスタンブール(アタテュルク国際空港、Atatürk International Airport、[トルコ語] Atatürk Havalimanı)まで12時間強かかりました。今回はイスタンブール(今後は全て言い慣れた「イスタンブール」とします)上空で旋回・待機もありました(こちら)。


成田空港を昼過ぎの出発でしたが、アタテュルク国際空港から直行してホテルに着いたのが、現地時間同日の20:00頃。イスタンブール(北緯41度)の気候はこちらのように東京(北緯35度)より寒いと考えていたのですが、(今年の東京が寒すぎたのか)寧ろ暖かいと感じました。




第2日目は朝7:30にホテルを出発、一路トロイ遺跡に向かいました。

所でトルコの世界遺産は、自宅近くの図書館で借りた2008年2月発行の「地球の歩き方」では9でしたが、2011年に増えて10になっていました。今回観光するのはその内の4ヶ所で、トロイ遺跡も世界遺産に入っています。
現地ガイドによると、歴史のある国だけあって候補は多数あり、観光スケジュールに入っているエフェソス(Ephesus、[トルコ語]Efes、エフェス)遺跡も未だ登録されていません。

ツアーの概略行程はこちらのGoogle地図の通りです(移動道路は、必ずしも実際の道のりと一致しません)。


より大きな地図で トルコ旅行2012年行程(予定) を表示



ホテルからマルマラ(Marmara)海のヨーロッパ側を西に進んでゲリボルという町からフェリー(こちら)で対岸のアジア側に渡りました。ここはダーダネルス海峡(Dardanelles、トルコでは近くの都市名に因んでチャナッカレ海峡、Çanakkale Boğazıと呼んでいる)で、海峡の延長は約60km、幅は1.2から6kmで、フェリーの航路としては4kmほど30分でした。良い天気であった事もありますが、海は非常に穏やかでフェリーの旅を楽しみました(こちらを参照)。





ダーダネルス海峡はこちらのように地中海につながるエーゲ海と黒海につながるマルマラ海を結ぶ狭い海峡で、古くから戦略上重要な地域でした。例えば第一次世界大戦時の「ガリポリの戦い」があります。この時に活躍したオスマン帝国のムスタファ・ケマル・アタテュルク(Mustafa Kemal Atatürk)准将(当時)がトルコ共和国の建国の父と呼ばれる事になり、今でも非常に尊敬されています(イスタンブールの玄関となる空港はアタテュルク国際空港)。議会から送られた名前アタテュルクは「父なるトルコ人」を意味しています。


軍事上で重要な地点であれば、交易上でも重要な航路となっていた訳で、狭い海峡は通行税を徴収し易い地形なのです。去年訪問したデンマーク・コペンハーゲン近郊のクロンボー城も(年代、方法は違いますが)通行税徴収の役割を担っていました(こちらを参照)。近くにある都市チャナッカレÇanakkaleのkaleは「城」を意味します。



トルコはこちらのように地域を別けていますが、トロイ(Troy)遺跡(イリオス遺跡)はマルマラ海沿岸地方であるダーダネルス海峡沿いの都市チャナッカレの郊外にあります。


トロイは(当時)海辺にあった為に交易で栄えました。(現状は)9層まで確認されていますが、何層にも渡って城壁・街が作られたのは地形・地勢的に良かったからでしょう。因みに現状では海から2 4.5kmほど離れていて(こちら)、ローマ帝国時代には海岸線が後退した為に街は遺棄されて忘れ去られました。

(栄えた当時の海が畑になっている・・・)

トロイ遺跡については次回に投稿します。



【訂正】 2012年05月09日 19:00 トロイ遺跡の位置、海岸との距離を訂正


 
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2012年05月02日

悠久 トルコの旅(1):全体概略


10日間ほど投稿をお休みしていましたが、その間でトルコ共和国(Türkiye Cumhuriyeti、以下トルコと略)に旅行していました。‭飛行機で片道12時間前後の移動を入れて8日間のツアー旅行でした。

概略の行程はこちらのGoogle地図の通りです(移動道路は、必ずしも実際の道のりと一致しません)。


より大きな地図で トルコ旅行2012年行程(予定) を表示

イスタンブル(Istanbul、日本で一般的な発音は「イスタンブール」)から入って、トロイ遺跡→エフェソス→パムッカレ→カッパドキア→イスタンブルに戻ってくるという、8日間コースとしては(逆順も含めて)非常に一般的なツアーです。

移動距離も長くスケジュールも(観光場所が多く)厳しいと思われましたが、ツアー客から特に大きな体調不調者を出す事もありませんでした。



トルコの面積(78万平方km、国別面積:37位)は日本の面積(37.8万平方km、国別面積:62位)の約2倍、人口は約半分(日本:12.6千万人・第10位、トルコ:7.3千万人・18位)といった所で、エルジエス山(標高 3,916m)、今回は行っていない東トルコにあるアララット山(アララト山[Mount Ararat]、アール山[Ağrı Dağı]、標高 5,137m。「旧約聖書」にでてくるノアの箱舟が大洪水の後、流れ着いたとされる)といった高い山がありますが、全体的にはなだらかな傾斜地が続き、(1回旅行した程度ですが)北海道の広野を移動するような感じでした。各地で違う雰囲気ですが、パムッカレからネヴシェヒル(Nevşehir。カッパドキア地方)へ移動する間の景色がこちらこちら

(ドライブインにて)

(車中より、低い峠状の地からの景色)

1日の移動距離は450km前後から650km程度でした。帰国してから高速ツアーバスの衝突事故を知ったのですが、今回のツアーでは(国の指針か観光会社orバス会社の指針か分かりませんが)バス移動時の運転手は(空港送り迎えは別にして)常に2名配置でした。



トルコは、紀元前3000年頃の青銅器時代や紀元前2000年頃からのヒッタイト時代など、古い歴史が語られる地域です。その後のペルシャ帝国、アレキサンダー大王に始まるヘレニズム・ローマ時代、東ローマ帝国としてのビザンツ帝国時代、トルコ系セルジューク朝・オスマン朝と続く東西交流(支配の激突、文化の融合、交易)の歴史的遺跡もあり、文化・民族でアジアとヨーロッパに跨る唯一の国です。

シルクロードを通して東アジアとの交流を持った国であり、日本とはエルトゥール号難破事件に始まる山田寅次郎(山田 宗有)の貢献によって、イラン・イラク戦争における在留邦人脱出時に救援機を提供してくれたり、イズミット地震(トルコ北西部地震)など地震発生時の支援などで感謝される親日国でもあります。
旅行中に高速道路のサービスエリアですれ違った少年やイスタンブルの公園で女子生徒などから一緒に写真を撮らせて欲しいと言われる雰囲気を持ちます(但し、都市部ではグループ窃盗の可能性に注意も必要)。人と人との絆を大切にする国民性が表れているといえます。



色々な要因を感じる事のできる旅行でしたが、(少しトルコ人の自尊心に基づく)現地ガイドの説明を参考にしながら何回かに分けて投稿します。その中で観光旅行とは若干雰囲気の違う話しも加わるかも知れません。本ブログは私の記録・メモの意味も持たせているので、興味の無い内容が出るかも知れませんがご容赦ください。

例えばトルコ語。これまで知らなかったのですが、トルコ語は主語+目的語+述語という語順の言語です。「私はレストランで食事をしたい」は、「Ben restoranlarda yemek istiyorum」ですが、
  • Benは「私」
  • restoranlardaは「レストラン」
  • yemekは「食事(食べ物)」
  • istiyorumは「私がしたい」
です。

最低限の挨拶として「こんにちは!」を意味する「Merhaba(メルハバ)」は良くテレビの旅番組で出てきています。
添乗員から教わったのですが、「おはよう」という意味の「Günaydın(ギュナイドゥン)」は「牛(ぎゅう)無い丼(ドン)」と覚えます。「お元気ですか?」(トルコ語はNasılsınでナスルスンと発音)に対して、「良い」は「iyi(イイ)」、「とても良い」は「çok iyi(チョクイイ)」と言います。「ありがとう」は「teşekkür ederim(テシェッキュレデリム)」ですが、「ティッシュくれ」と覚えればトルコ語の日本弁程度には聞こえるかも知れません。
タモリさんの番組「空耳アワー」の見過ぎでしょうか・・・


こんな事からトルコ(トルコ人)へ親近感や本ブログの旅行話に興味を持ってもらえたらと思います。


 
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posted by 鎌倉太郎 at 23:25| 神奈川 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記-トルコ | 更新情報をチェックする