2012年06月18日
悠久 トルコの旅(17):カッパドキア - 居住洞窟と地下都市
第5日目のカッパドキア観光でホテルを出発してから最初にバスが停まったのはこちらのウチヒサール(Uçhisar)。
無数掘られた住居洞窟ですが、バスの停車位置からさほど離れられないので残念ながら洞窟内の様子までは分かりません。
この反対側の景色に目をやると、上空からカッパドキアを観光しようという気球が幾つも揚がっていました(こちら)。
山のような所に掘られた居住洞窟とは対照的な地下都市は多数(36ヶ所?)見つかっているそうですが、最初に発見されたカイマクル(Kaymaklı)を観光しました(「the Citadel(要塞) of Kaymaklı」とも云われる)。こちらで左上が本来の入口ですが、右下が観光客用の出入口。
洞窟内は部分的に体を屈まないと通れない所もありますが、滞留スペースは(身長173cmの私は)腰を曲げなくても立っていられる程でした。
教会スペースやワイナリーといわれるスペースがありました。フロアーの層によって役割を持っているようですが、腰を屈めながら下っていくうちにフロアーの層も判らなくなる程であまり説明できないので、巧く撮れた写真だけ掲載しておきます(「地下都市内n」のクリックで拡大)。
地下都市内1
地下都市内2
地下都市内3
地下都市内4(丸い石は敵が潜入してきたら通路を締め切る役割を持ちます)
地下都市内5
地下都市内6
地下都市内7
昼食は洞窟レストランでした。(地下も含め)ビルの中のレストランに慣れている為か、普通の建物の内部と変わりませんでした(こちら)。但し、椅子とテーブルは岩の為重厚感(!?)がありました。
2012年06月16日
悠久 トルコの旅(16):カッパドキア - 奇岩(パシャバー地区)【改訂】
今回はキノコのような形をした奇岩で有名なパシャバー(Pasabag)地区です(「the Pacha 's vineyard(将軍のぶどう園)」とか「Monks Valley(修道士の谷)」とも紹介されている)。早速全体のパノラマ写真がこちら。
肝心のキノコのような形をしているといわれる奇岩が写っていませんが、パノラマ写真の右側に位置していてこちら。
こちらのように細くなっている奇岩は、数百年後に再訪する時(!?)には無くなっているかも知れません・・・
他の見所は、パノラマ写真でラクダのいる背後の奇岩群を反対側(後ろ側)から見たこちら。居住(?)洞窟になっています。
こちらのように中から窓(?)の景色も良いです。
尤もこの地区にはキリスト教・修行僧などが多く住み祈りの場としていましたが、外部からの攻撃を受ける事もあったといいます。パノラマ写真の撮影場所である広場からは洞窟の存在を分からないようにしている節もあるので、見張り台的な役割を持った場所かも知れません。
パノラマ写真の奥には更にこちらやこちらのような景色を見る事ができます。
【改訂】2012年06月18日 13:00 記述追加
2012年06月13日
悠久 トルコの旅(15):カッパドキア - 奇岩(ギョレメの谷、親子岩、ラクダ岩)【改訂】
第5日目は今回のツアーで最大の見所となるカッパドキア(世界遺産)の見学です。ガイドが言うに、トロイ遺跡→エフェソス遺跡→パムッカレ&ヒエラポリス遺跡→カッパドキアという順序が見学地の質が右肩上がりに良くなる順序だといいます。逆にトロイ遺跡が最後だと徐々に寂しくなる順である事は理解できます・・・
さて、場所とツアールートの確認で、Google地図などを再掲しておきます。
カッパドキアはこちら、中央アナトリア地方になります。
ツアールート
カッパドキア(Cappadocia、[トルコ語] Kapadokya)は、アナトリア高原に広がる奇岩地帯です。世界遺産のタイトルは「ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群」となっていますが、ギョレメ国立公園([トルコ語]Göreme Milli Parklar)の範囲・位置付けが分かりませんので特に意識しない事にします。また、カッパドキアの岩石遺跡群が自然遺産、居住洞窟・地下都市などが文化遺産となる複合遺産と解釈しておきます。
まず岩石遺跡群ですが、数億年前に起きたエルジェス山(Mount Erciyes、[トルコ語] Erciyes Dağı)の噴火で積もった凝灰岩や溶岩層を風雨が侵食してできた自然の景色です。見所となる場所が転々と広がっています。各々はバスで数分から20~30分の移動をします。
最初がギョレメの谷。一望できる展望台からの景色がこちら(パノラマ処理)。
この左側の景色もこちらのように素晴らしいのですが、撮影場所の位置関係からパノラマに入れられませんでした。
次がこちらの親子岩。観光予定表ではスリーシスターズ(3姉妹)となっていましたが、2本の岩の1つ(左側。母岩?)に寄り添う娘?といった雰囲気でしょうか。
親岩の間から雪を頂くエルジェス山が雲に覆われながらも見る事ができました。Wikipedia(英語版)では「Fairy chimneys(妖精の煙突)」と紹介しています。
親子岩の周りの景色がこちら(パノラマ処理)。親子岩を単独で見るのとは違った感動があります。何か西方から来るであろう人・ものを待っているように見えます。
次はこちらのラクダ岩。長い首に頭、背中に2つのコブ。立上って進もうとしているようです。
こちらの周りには多くの奇岩がありますが、「未だ名前は無い・・・」ようなのでイメージで付けてみたらどうでしょうか?
奇岩の最後はキノコのような形をした奇岩で有名なパシャバー地区ですが次回の投稿とします。
【改訂】2012年06月18日 11:30 記述追加
2012年06月11日
悠久 トルコの旅(14):キャラバンサライ(隊商宿)
第4日目にコンヤで見学をした後再びバスで更に230km以上の行程でカッパドキア地方に向かいましたが、途中でルーム・セルジューク朝の時代に作られ(修復され)たキャラバンサライ(Caravanserai、Karavansaray、[トルコ語] kervansaray)と呼ぶ隊商宿に寄りました(こちらを参照)。
トルコ語で「kervan(隊商) saray(宮殿)」と呼ばれるだけあって、こちらのように外壁が堅固です。
宿泊を目的とするには立派過ぎる(?)宿ですが、シルクロード(絹の道)やスパイスロードなどとして東西を結ぶ商業ルートを確立する為に、スルタンがルートの沿って何ヶ所も作って使わせたといいます。盗賊たちも隊商を狙っていたでしょうから、安心できる宿泊施設は歓迎されたでしょう。
3日までの宿泊は無料にして、「街を活性化することを奨励するために、食事や飲み物を充実させ、靴の修理や動物の世話まで宿泊期間中は全て無料でサービスするなど、より多くの商人がその地を訪れようにという工夫が取り入れられたのです。これらの取り組みによりセルジュクトルコは交易による多大な利益を得て繁栄の道をたどる事になりました(こちらを参照)」。
こちらの入口を入った所がこちら。
キャラバンサライの内部構造は(見学した所と若干異なりますが)こちらのようでした。戦乱で離散の民となって中東に流亡していたアルメニア人が建設工事に関わり、高度な教会建築を発展させていた技術や様式を用いていたといいます。
居住スペースの天井は非常に高く、外壁の高さがそのまま天井の高さになっています。中庭の左のスペースは小さく区切られていましたが、列柱ホールというスペースは特に区切られていませんでした。スペースの使い方など詳しくは分かりません。
2012年06月04日
悠久 トルコの旅(13):コンヤのメヴラーナ博物館とインジェ・ミナーレ博物館
第4日目の朝早くにパムッカレとヒエラポリス遺跡を見学した後、1日だけで600km以上を移動してカッパドキア地方に向かいました。途中でコンヤ(Konya)というルーム・セルジューク朝の時代に首都だった事もある都市を見学しました。ガイドはコンヤについて京都のような位置付け(古い都)という表現をしていました。
まず各観光地の位置とツアールートを再掲載します。
コンヤはこちら、中央アナトリア地方になります。
ツアールート
コンヤでの見学はメヴラーナ博物館(Mevlana Museum)とインジェ・ミナーレ博物館(Ince Minaret Medrese)。
メヴラーナ博物館(こちら、入り口はこちら)は、メヴレヴィー教団を13世紀に開基したメヴラーナ(ジャラール・ウッディーン・ルーミー)の霊廟です。「脱イスラム政策」で教団は解散になりましたが、歴史的文化価値などから霊廟は博物館として公開しています。
内部は博物館といえども今でも棺が祀られており撮影ができません。その他直筆の本や愛用品・衣服などの遺品なども展示しています。
メヴレヴィー教団はセマー(Sema、Sama、旋回舞踏)でも知られ観光客向けのショーとして見られます(こちらを参照。今回のツアーには入っていませんでした)。旋回舞踏はより広くはスーフィズム(Sufism)での修行の1つとして行われてきましたが、エジプト旅行で観光客向けスーフィー・ダンス(sufi dance)としてショー化しているのを見ました(こちらを参照)。
メヴレヴィー教団のセマー
メヴラーナ博物館の入口に対面する別棟には、こちらのようなセマーなどの様子を示す修行僧の人形や宝飾品などを展示しています。
インジェ・ミナーレ博物館(こちら)は、イスラム関係の彫刻の博物館という事ですが、未だ先の移動距離があるので入口だけの見学。しかしこちらのように建物の彫りを見るだけでも十分にその文化の様子が判ります。
インジェ・ミナーレの名「ince(細い) minaret(尖塔)」は右のミナレット(尖塔)からきていて、ミナレットは以前はこの写真の3倍の高さだったとか。落雷で崩壊。
インジェ・ミナーレ博物館はアラアッディンの丘(こちら)の周りにあります。アラアッディンの丘は住民の憩いの場所となっているようで、周辺はトラムが周回する(こちら)中心街です。
2012年06月03日
悠久 トルコの旅(12):中央アナトリア地方の高原風景
第4日目の朝早くにパムッカレとヒエラポリス遺跡を見学した後は、1日だけで600km以上を移動してカッパドキア地方に向かいます。その為にホテルを6:50に出発してパムッカレを見学し、8:30にはカッパドキアに向けてバス移動を始めていました。
途中でコンヤ(Konya)というルーム・セルジューク朝の時代に首都だった事もある都市を見学しながら経由します。ガイドはコンヤについて京都のような位置付け(古い都)という表現をしていました。
パムッカレからコンヤまででも400km以上。途中の休憩もありましたので、6時間半のバス移動でした。緩やかな傾斜面の高原風景は、単調なようでそれなりに変化のある風景でした。
まず各観光地の位置とツアールートを再掲載します。
コンヤやカッパドキアはこちら、中央アナトリア地方になります。
ツアールート
本投稿ではパムッカレからコンヤまでの途中の景色を掲載しておきます(地名や対象物の説明はしません)。
風景1
風景2(塩湖)
風景3(小麦畑)
風景4(りんご畑)
風景5(大理石の採掘現場)
比較するものが写っていないので規模・大きさを認識し図らい。割と道路に近い所でした。
風景6(峠からの景色)
それ程高低差の無い峠を越えた所。
風景7
風景8
風景9
コンヤに近い所では大きな街になっていました。
風景10
2012年06月01日
悠久 トルコの旅(11):パムッカレとヒエラポリス遺跡(2)
石灰棚のパムッカレがある台地はローマ帝国時代の大規模な温泉保養地ヒエラポリス(Hierapolis)でした。当時の様子を描いた想像図がこちら。
想像図の⑭辺りが観光入口となった南ゲートで、前回の投稿でパムッカレとして掲載写真を撮ったのがBの辺りです。⑦はアゴラ(広場、市場)で大きな円形劇場(⑪)もあります。⑩がアポロ神殿、⑮がセント・フィリッポのキリスト教会(Saint Philipe Martyrion)になっていました。
ローマ時代の地震でも復興したようですが、現在は完全に遺跡になっています。
こちらが⑬辺りから⑪の円形大劇場跡を見た所。
15,000人を収容でき保存状態も良いとの事で、手持ちのガイドブックには見所とありましたが、円形劇場はエフェソス遺跡でも見たので時間の都合もあってか、遠景で見ただけでした。
こちらはAの辺りから⑦のアゴラの方向を見た様子です。
⑬は屋内競技場(Gymnasium)ですが、この辺りで撮った写真がこちら。
⑫は大浴場跡ですが、現在は博物館になっています(入口がこちら。私たちツアーの観光対象外)。
AはTV番組の紹介ででてくる温泉(こちら)。地震で倒れた円柱が温泉内にあります。
温泉保養地でこちらやこちらのような(パノラマ写真の)景色が見られるのですから、現代人だけでなくローマ時代の人達にも愛されたであろう事は良く分かります。
2012年05月31日
悠久 トルコの旅(10):パムッカレとヒエラポリス遺跡(1)
第4日目は石灰棚のパムッカレを見学する事から始まりました。
まずパムッカレの位置とツアールートを再掲載します。
パムッカレはこちら(エーゲ海沿岸地方)。
ツアールート
パムッカレ(Pamukkale)には南ゲートから入りました(こちらを参照。石灰棚は左側一帯)。南ゲートから暫くローマ帝国時代の遺跡の横を通りましたが、次回投稿でヒエラポリス遺跡として書きます。
観光地図
パムッカレ(石灰棚)は下から(バスの車窓から)見るとこちらのよう。パムッカレは「pamuk kale」とするとトルコ語で「綿の城」の意味になります。この地域は古くから綿花の生産地であった事と、白い石灰と綿花の白さが想起されて名付けられました。
上部から見るとこちらのようになっています。
ただ残念ながらこのようにお湯が流され蓄えているのは広い石灰棚の一部です。よくある事でしょうが、温泉観光地でホテルが多数建ってお湯を汲み上げた為に枯渇し始めています。対策として(石灰棚の変色を防止する為に)お湯を区域毎に別けて定期的に巡回して注水しています。ですから、上掲の区域以外ではこちらのようにお湯を全く入れていません。これも綺麗ですが・・・
観光客用に一部区画にお湯を流して足を付けられるようにしています(こちらを参照)が、それ以外は石灰棚に下りる事はできません。
それでもこのように水草が出始めているのは残念です。
パムッカレ近くのホテルなどは全て近くの村に移転しています。そこでも温泉が出て、露天風呂があります(水着と帽子着用が必要。日本人には温水プール・・・)が、内風呂でも温泉湯に浸かる事ができました。こちらの金色の蛇口から出ました。
2012年05月30日
2012年05月29日
悠久 トルコの旅(8):エフェソス遺跡(4)
更に前回の続きです。エフェソス遺跡のマップと最盛期の想像図を再掲しておきます。
エフェソス遺跡のマップ
最盛期の想像図
図書館の正面右側にある門を入った所(こちら)がアゴラ(Lower Agora;遺跡マップの[24]、想像図の22)。エフェソスの上方にあるアゴラ(Upper Agora。遺跡マップの[7]、想像図の3)に対して、実際の商売をする市場になっていました。
こちらが大劇場(Great Theater;遺跡マップの[25]、想像図の24)の全体(ここからが大劇場を撮る最良の場所だとガイドが・・・)。24,000人を収容できたそうです。
舞台上手(かみて、正面右)からのショットがこちら。
観客席の上方はかなりの高さがあります(こちらを参照)。
河川の土砂の堆積で現在は海岸から離れていますが、かつてエフェソスは交易都市として、このアルカディアン(Arkadiane)通り(遺跡マップの[26]、想像図の26)の先が、船着場(遺跡マップの[29]、想像図の29)でした。
交易都市として、商売の場所は勿論、劇場・競技場・浴場(そして娼館)などの憩いと遊ばせる施設を整えていた事が分かります。