「拾翠亭」は、江戸時代後期に五摂家のひとつで公家である九条家の広い敷地の中に別邸として建てられましたが、明治時代初期の東京移住命令に伴い母屋などの主要な建物は東京に移築され、庭園・池と共に残されました(こちらとこちら)。
続いて「閑院宮邸跡」です。宮家「閑院宮」は東山天皇の第六皇子である直仁親王が創設しました。東山天皇に続き中御門天皇・桜町天皇・桃園天皇・後桃園天皇が継承しましたが、後桃園天皇に嗣子が無かったので、直仁親王の孫にあたる祐宮が光格天皇として継承し、今上天皇陛下に繋がります(こちらを参照)。
もう一つ、光格天皇は幼少時に聖護院門跡を継ぐ予定で入寺していましたので、天明の大火により京都御所が焼失したのち再建されるまでの3年間、親しんだ聖護院を仮御所とした前回の話しに繋がります。
「閑院宮邸跡」の説明スタッフが言うとっておきの話し2点。1つは、次回紹介の「京都迎賓館」は内閣府の管轄、「京都御所」は宮内庁の管轄、そしてその2つの除く「京都御苑」は環境庁の管理なのだそうです。2つ目は、「蛤御門」の建てられている現在の方向は西を向いていますが、本来は南を向いていたとの事です。