2019年01月08日

萩・津和野・宮島の旅(8) 瑠璃光寺の五重塔


第3日の2番目(で今旅行の最後)は、山口市香山町にある瑠璃光寺(こちら)の国宝「五重塔」でした(こちらこちら)。







法隆寺室生寺興福寺醍醐寺など何気なく見てきた五重塔ですが(厳島神社でも・・・)、ここは京都の醍醐寺・奈良の法隆寺のものと並ぶ日本三名塔の一つになっています。



この五重塔の建立は1442年で大内氏の領地であり、香積寺と称していました。瑠璃光寺という名称は、陶氏により1471年現在の山口市仁保高野に建立した安養寺が、1492年瑠璃光寺と改められた事に由ります。 つまり別の場所に建てられた別の寺院でした。

所が毛利氏は1604年に香積寺を萩に引寺、その跡地に1690年仁保高野の瑠璃光寺を現在の地に移し、名称もそのまま引き継ぎました。



ここで出てくる3氏は複雑な関係にあります。大内氏の第16代当主大内義隆に対して、(それなりの理由があるでしょうが・・・)家臣の陶隆房(後の晴賢)が謀反。

毛利元就は1555年陶晴賢(隆房から改名)を「厳島の戦い」で自害に追い込んでいます。


添乗ガイドからの示唆で調べたのですが、歴史におけるこの背景に対し更に姻戚関係などの背景もあるようですが詳述しません。



この歴史が分かると、この地に毛利家(萩藩主)の墓所(香山墓所)のある理由も若干理解できます(こちら)。



参道の石畳で手を叩くか強く足踏みすると反響音が返ってきます(「うぐいす張りの石畳」と呼ぶ)。恐らく音が高い石段の段毎に反響が少しづつずれるからではないでしょうか。



サルスベリの樹に途中から松の幹が出ています(こちらの中央部分に注目)。前後関係で松の幹の下部が写真に写らないのではありません。




「枕流亭」と呼ぶ歴史的建物があります(こちら)。坂川の流れにのぞむ湖畔にあったのを移築しています。


土佐藩の坂本龍馬の呼びかけで、薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)や大久保一蔵(利通)ら、長州藩は木戸準一郎(孝充、桂 小五郎)や伊藤俊輔(博文)らが会合した場所との事です。



帰路は本州の南海上を通るルートであった上に右窓側であったので、太陽の反射光を受ける形で伊豆諸島(と思われる)の島々を見る事ができたのも初めてでした(こちら)。




着陸態勢に入っている千葉県上空で旧「浸透実験池」(こちらこちらも参照)が見えたのもラッキーで、個人アレンジなら絶対に夜間便にしていた所を昼間便の故です。




今回は現地での添乗ガイドが(旅行会社の添乗員としての役割を果たしながら)、宿の女将には言えないが・・・といいながら、女将の微笑ましい裏話をしたり、歴史的な事も直接的な背景を裏話的な内容も含めて説明するなど、有益な話しが多かったのは好感を持てました。



posted by 鎌倉太郎 at 20:00| 神奈川 ☁| Comment(0) | 日記-日本の旅 | 更新情報をチェックする
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